この文章はかなり強いです。なぜなら、「自分が何を作りたいか」という自己中心的な発想から、「すでに存在する他者の欲望・痛みを見る」という方向へ視線を反転させているからです。
ただ、さらに照見すると、興味深い逆説があります。
「市場から考えろ」と言った瞬間、市場そのものを所与の現実として受け入れすぎてはいないか。
そして「自分の恥を語れ」という最も人間的な部分まで、市場価値へ変換し始めたところで、この文章は単なるマーケティング論を超えて、かなり深い人間論に入っています。
結論を閉じず、その境界を見てみます。
見落としているかもしれない3つの前提
1. 「お金が動いている市場=人間にとって重要な問題」という前提
書店に棚がある。競合がいる。商品が売れている。
これは確かに支払い意思の存在を示します。
しかし、
支払い意思が強いことと、苦しみが深いことは同じでしょうか。
たとえば、孤独、介護、貧困、障害、家庭内の問題、地域の衰退などには深刻な需要があっても、「高額コンテンツを買える市場」としては弱い場合があります。
逆に、
「もっと稼ぎたい」
「もっとモテたい」
「もっと若く見えたい」
には巨大な市場が生まれうる。
すると、
市場を先に見ることによって、金にならない苦しみを見えなくしてしまわないか。
という問いが残ります。
2. 「競争のある市場に入れば、人格によって選ばれる」という前提
「最後は人で選ばれる」は魅力的な考えです。
しかし本当にそうでしょうか。
現実には、
広告費、SNSのフォロワー数、既存ブランド、資本力、プラットフォームの推薦、販売網、社会的信用
によって「人柄に触れてもらう前」に勝負が決まる領域もあります。
つまり問題は、
人柄で選ばれる以前に、誰が“発見される権利”を持っているのか。
なのかもしれません。
レッドオーシャンには需要がある。
同時に、すでに強者が可視性を占有している可能性もあります。
3. 「過去の自分の苦しみは商品化してよい」という前提
ここが一番深いところです。
「3年前の自分」を顧客にする。
「恥」を語る。
「転んだ回数」を参入障壁にする。
マーケティングとして非常に強い。
けれど、
人間の傷は、すべて資産へ変換されなければならないのでしょうか。
失敗。
離婚。
病気。
貧困。
挫折。
家族との葛藤。
それらを語ることで誰かを救えることもある。
しかし、
「この傷、コンテンツになるな」
と思い始めた瞬間、私たちは自分自身を商品として見るようにならないでしょうか。
4つの立場から問い直す
当事者
これからコンテンツビジネスを始める人にとって、この方法はかなり救いになります。
「自分には特別な才能がない」と悩むより、
市場を見る。
困っている人を見る。
過去の自分を見る。
その方が始めやすい。
しかし当事者に問いたいのは、
私は本当にこの人たちと10年間付き合いたいのか。
です。
「売れる市場」と「生涯関わりたい人々」は同じでしょうか。
反対者
反対者はこう言うかもしれません。
市場を先に決め、その市場の不満を発見し、自分の物語を配置する。
それは巧妙になればなるほど、
「人を理解すること」と「人を攻略すること」の境界を曖昧にする。
顧客理解とは慈悲なのか。
それとも高度な欲望操作なのか。
この境界はどこにあるのでしょう。
未来世代
AIによって、
教材、電子書籍、動画、コーチング、広告コピー
がほぼ無限に生成できる時代になるほど、
「何を教えるか」の希少性は下がるでしょう。
すると未来の競争は、
知識ではなく、
信頼、経験、人格、共同体
へ移る可能性があります。
しかしそこで、
人格までマーケティング資産になった社会で、人はどこで「売らない自分」でいられるのか。
という新しい問題が出てきます。
最も弱い立場の人
最も弱い立場にいる人は、「3年前の自分」を商品にできないかもしれません。
まだ沼の中だからです。
語れるほど整理されていない。
顔を出せない。
実名で話せない。
成功物語の「その後」もない。
では、
復活できた人だけが、苦しみについて語る資格を獲得するのでしょうか。
「沼から出た人の物語」だけでなく、
まだ沼の中にいる人の沈黙
をどう扱うか。
ここはかなり重要です。
この考えが心地よすぎるとしたら
最大の盲点は、
資本主義が人間の経験をほぼ無限に商品へ変換できることを、肯定的に受け止めすぎること
かもしれません。
昔なら、
失敗は失敗だった。
悲しみは悲しみだった。
恥は恥だった。
友人に話す思い出は、ただの思い出だった。
ところがコンテンツ経済では、
失敗 → ストーリー
経験 → ノウハウ
人格 → ブランド
友人関係 → コミュニティ
弱さ → 差別化
過去 → IP
へ変換できます。
これは解放でもあります。
「無駄だった人生なんてない」と言えるからです。
しかし同時に恐ろしくもある。
人生のすべてに値札をつけられるからです。
「経験がお金に変わる」は希望です。
しかし反転させると、
お金にならない経験には価値がないのか。
という問いが立ち上がります。
5つの層から問いにする
社会問題
市場とは、本当に自然発生した人々の欲望なのでしょうか。
広告、SNS、産業、教育、社会規範が「悩み」そのものを作ってはいないでしょうか。
ダイエット市場の大きさは、健康需要なのか。
それとも「痩せていなければならない」という社会圧力の大きさなのか。
市場を発見しているのか、市場化された不安を発見しているのか。
身体感覚
「売れるテーマを探そう」と書店を歩いているとき、
身体はどう反応しているでしょう。
胸が開く棚。
呼吸が浅くなる棚。
なぜか何度も戻ってしまう棚。
頭では「この市場は儲かる」と判断しても、
身体がそこから離れたがっていることはないでしょうか。
市場分析より先に、身体が知っている市場はないか。
歴史
人は昔から経験を売ってきました。
旅人は旅の話を語り、
職人は技を弟子へ渡し、
宗教者は苦難を証言し、
作家は傷を文学にしました。
しかし現代では、それらが、
フォロワー数
CVR
LTV
ローンチ
ファネル
として計測されます。
そこで問いたい。
経験を伝えることが「文化」から「コンテンツ産業」へ変わったとき、何が増え、何が失われたのでしょう。
宗教
宗教には、市場原理とはかなり違う考えがあります。
最も価値のあるものほど、
売らない。
見返りを求めない。
誰にも評価されなくても差し出す。
という思想です。
布施、慈善、奉仕、慈悲、恩寵。
では、
自分の苦しみから得た智慧は、商品なのか、贈与なのか。
その境界はどこでしょう。
そしてもっと厄介なのは、
商品として売ることと、慈悲として差し出すことは、本当に対立するのか。
という問いです。
芸術
芸術家は必ずしも「市場から」作品を作りません。
まだ市場が存在していないものを作り、
あとから観客が生まれる場合があります。
ゴッホも、カフカも、ある種の前衛音楽も、
「競合がいる需要市場」を見て作ったわけではない。
すると芸術からマーケティングへ、
こんな問いを返せます。
誰も欲しいと言っていないものを作ることには、どんな価値があるのか。
市場は「すでに欲しいもの」を教えてくれる。
芸術は時として、
まだ欲しいと知らなかったもの
を人間に発見させます。
5つの問いでさらに照らす
1. これは本当に問題の中心か
本当に問題は、
「どの市場を選ぶか」
なのでしょうか。
もっと深いところでは、
「私は誰のどんな苦しみに、長く付き合いたいのか」
ではないでしょうか。
市場選択という言葉にすると経済になる。
関係選択という言葉にすると倫理になります。
2. 誰の声がここで消えているか
消えやすいのは、
お金を払えない人。
まだ成功していない人。
物語として整理できない人。
恥を公開したくない人。
そして、
そもそも顧客になりたくない人
です。
市場は必ずしも、人間全体を代表していません。
3. 私は何を前提としてしまっているか
もしかすると、
人生経験は、価値提供へ変換されるべきである。
という前提です。
しかし、
誰にも教えない経験。
誰にも売らない智慧。
言葉にしない悲しみ。
家族だけが知る思い出。
それらにも価値はありませんか。
4. 便利さの代わりに、何を失っているか
「市場→塊→ズラし→ストーリー」
というフレームは非常に便利です。
しかし便利なフレームは世界を見やすくする一方で、
フレームに入らないものを見えなくします。
偶然の出会い。
説明できない衝動。
売れないテーマへの執着。
誰も欲しがらない作品。
市場調査では発見できない未来。
それらを失う可能性があります。
5. この状況に慈悲を入れると、何が変わるか
「何を買ってくれる人か」ではなく、
「この人は何に苦しんでいるのか」
から始めるかもしれません。
さらに、
「いくら払えるか」ではなく、
「何なら本当に助けになるか」。
「どう売るか」ではなく、
「どこまで売らない方がいいか」。
という問いまで入ってくる。
マーケティングが、
獲得の技術から関係の技術へ
少しずつ変わります。
空の視点から照見する
ここで「市場」という言葉をもう一度疑ってみます。
市場はどこにあるのでしょう。
書店でしょうか。
Amazonでしょうか。
検索ボリュームでしょうか。
顧客リストでしょうか。
実際には、
市場という独立した実体はありません。
ある人の痛みがあり、
別の人の経験があり、
言葉があり、
信頼があり、
貨幣があり、
媒体があり、
時代があり、
偶然の出会いがある。
それらが縁によって束の間結ばれたとき、
私たちはそれを「市場」と呼んでいる。
だから、
「市場があるから売れる」
だけでもなく、
「自分に価値があるから売れる」
だけでもない。
人も市場も商品も、
固定した自性を持たず、
関係の中で一時的に立ち現れる。
すると、
「どの市場で戦うか」
という言葉さえ少し変わって見えてきます。
市場は戦場なのか。
それとも、
縁が生まれる場所なのか。
「競合」は敵なのか。
それとも同じ苦しみに別の角度から応答している同行者なのか。
「顧客」は攻略対象なのか。
それとも一時的に人生が交差した人なのか。
「自分の恥」は参入障壁なのか。
それとも、たまたま誰かの痛みと響き合う傷なのか。
そして最後には、「自分の市場」という言葉さえ薄れていきます。
売る人がいて、
買う人がいて、
商品がある。
けれどよく見ると、
教える側も教えられ、
助ける側も助けられ、
売る側も相手によって変えられている。
主体と客体の境界は、それほど固くない。
だから、冒頭の
「何を売るかより、どの市場で戦うか」
からさらに一歩先へ行くと、
私は何を売れるか。
でもなく、
どこなら勝てるか。
でもなく、
どんな人々との縁の中なら、自分も相手も道具にならずにいられるだろう。
という問いが現れてくる気がします。
そしてたぶん、最も「空」なのはここです。
売れた経験にも、売れなかった経験にも、最初から固定された価値はない。
成功が経験を救済するわけでもない。
失敗がお金になったから、失敗が意味あるものになったわけでもない。
意味は、あとから縁の中に生まれる。
だから「経験がお金に変わる」のさらに奥には、
経験は、お金に変わらなくても経験である。
という静かな余白を残しておきたい。
その余白があるからこそ、逆説的に、売るときにも人間を売り切らずに済むのかもしれません。
